フクチャンのTシャツが走る ー「早稲田フェスタinあきた」を終えて
 「フレー フレー ワセダー」「フレー フレー イトオー」

 秋田駅前の人情酒場「久保田」。8月20日の午後5時30分。外は暑くまだ明るい。早稲田フェスタinあきた実行委員会の打ち上げが始まる。座敷には「夏休み一日博士体験」の理工学部技術スタッフの方々も加わり、30人の実行委員が集まった。野球教室、ラグビー教室、博士体験、鼎談、進学ガイダンスのそれぞれの委員会から報告がある。「ラグビー教室は200人参加でした」等々、そのたびに大きな拍手。やがて、大学広報課の大石勇人君の尺八の伴奏で「早稲田の栄光」を歌う。もっともこの歌を知ってる委員は少ない。そして皆立ち上がり、応援歌「紺碧の空」を高らかに歌い上げ、最後に校歌都の西北で閉めくった。早稲田フェスタ用のフクチャンTシャツを着た面々は美酒に酔いしれている。そして鼎談委員会の小西政男君がエールを行った。

 「イトオー」とは大学総長室の伊藤功氏のことである。
 平成10年の夏。秋田県金浦町の白瀬南極探検隊記念館。ここは日本で初めて南極探検の快挙をなした白瀬中尉と探検隊員の記念館である。館内に入ってすぐ、大隈重信老侯の写真が掲げられている。大隈さんは白瀬中尉の南極探検隊の後援会長であった。
 ここで私は奥島孝康総長一行を待っていた。山形での支部総会に出席された伊藤功秘書課長も一緒に到着。秋田県太田町出身の彼は私の車の助手席に乗り、黒松林が続く日本海の国道7号線を秋田市に向かって北上した。車中、「先輩、秋田で早稲田フェスタをやりませんか」という。「早稲田フェスタ?」「早稲田を地方に移したお祭りです。今まで富山と佐賀でやってます。子ども達のための野球教室やサッカー教室などです。秋田で佐々木さんのやっている地域づくりのシンポジウムなんかやったらどうですか」先輩などといわれると、体育会系としては「おおーそれは面白そうだな」と答えてしまう。

 2年後の夏。早稲田フェスタinあきたに、伊藤功氏は残念ながら病気がちになって来れず、「フレーフレー伊藤」と叫び、ふるさと秋田から皆で彼の健闘を祈った。
 大隈5訓 一 何事も楽観的にみよ 一 怒るな 一 奢るな 一 愚痴をこぼすな 一 世の中のために働         け
 早稲田フェスタinあきたの開催目的は、早稲田の仲間として実行委員の共通認識として、母校と地域への貢献と考えた。大隈五訓にある世の中のために働こうという訳である。それを形に示すのに何か欲しかった。フクチャンのTシャツを考えた。学生時代レスリング部に所属していたが、胸にフクチャンの絵があるTシャツを着ていた。早稲田フェスタ用のTシャツを作り、これを資金とし、皆の共通意識を高めようと考えた。
 平成11年10月末。早稲田の稲穂食堂。秋田で一緒に飲んだ母校名誉教授の上田雅夫先生と待ち合わせ。稲穂のご主人長谷川弘さんから横山隆一先生を紹介してもらう約束だった。早稲田フェスタ用のフクチャンのTシャツを作りたく、著者の横山隆一先生の了解を得たいと考えていた。長谷川さんはすぐに、鎌倉の横山先生に電話してくれた。「いいそうです」といわれ、鯉のぼりをもって走る姿のフクチャンの絵をお借りした。著作権は無料だといわれる。それは恐縮で「横山先生に秋田銘酒一升を一生お送りします」と長谷川さんにお約束した。
 事を為すにはまずは知ること。後は仲間の組織化と意思統一。そして情報と資金を一本化する事務局体制を作ることが大切である。
 平成11年9月。早稲田フェスタin遠州の実行委員長、青野氏に電話をした。応援団出身の彼は後に、フェスタの資料をどっさり送ってきてくれた。大感謝であった。
 早稲田フェスタinあきた実行委員会を正式に旗揚げしたのは今年の6月。それまでは、実行委員会設立準備会を何度も開いて、校友の参画を待って門を開けておいた。後に手伝いたいとの申し出が多くありこれは嬉しかった。10月に有志でのフェスタ実行委員会設立準備会、3回目の準備会では実行委員会の中に委員会を設け、鼎談、野球、サッカー、ラグビー、一日博士体験、進学ガイダンスの事業委員会の他に総務、財務、広報、企画プログラム、司会、受付、会計の13の委員会を設けることとした。遠州では新聞社にも実行委員会の事務局を設けていたが、秋田市で三愛土地建物鰍経営する大島昌良君に事務局次長をお願いした。秋田稲門会野球部マネージャーでもある彼には、大変だろうが、三愛とは家族、ふるさと、早稲田だろうとして頼み込んだ。

 今年の1月26日。秋田市・あきたくらぶ。ここで早稲田大学校友会秋田県支部の役員会と秋田稲門会新年会が開かれ、早稲田フェスタinあきた開催が正式に了承された。県内全域で開催することにし、それぞれにOBがいるサッカーは横手市(福田誠氏)、野球は大館市(斎藤誠治氏)、ラグビーは国体開催地となる男鹿市(佐藤一誠市長)とし、一日博士体験はTDK創立者でOBの斎藤憲三先生の出身地仁賀保町で開催することとした。秋田市では鼎談と一日博士体験、進学ガイダンスを開催する。
 大会会長に石川錬治郎支部長、副支部長の9人にそれぞれ大会副会長をお願いし、実行委員長には支部幹事長の佐野元彦君、副実行委員長には支部副幹事長の吉田典雄、松村穣裕の両君とした。私は司令塔役として事務局長となる。実行委員には主に秋田稲門会の若手役員、秋田稲門会野球部のメンバー、仙台稲門会野球同好会の中野三樹君も入ってくれた。
 さて、実行委員会としての組織化ができた。そして資金と意思統一をつくるTシャツができてきたのが、1月始め。財務委員長の小西泰次郎氏が奔走してくれて、胸にWマーク、背中にフクチャンの絵が入り、その上にWASEDA
FESTA in AKITA 下に2000 8.19〜20と書かれている。

 資金は重要ではないが、必要性である。入りをはかるのはTシャツへの協賛金と後はプログラムへの広告代しかない。地元紙秋田魁新報に一面広告を掲載することにし、それはOBからの広告で掲載費となる。一ヶ月前に3段の広告、8日前に全面広告を掲載してもらった。早稲田のアイデンティティを示すには効果があったと思われるが、これによって全県から野球教室等の申込者が定員を超えることはなかった。事前にスポーツ少年団や関係者に参加依頼をしておく必要があった。
 6月2日(金)午後6時30分〜。秋田市の繁華街川反にある秋田ふるさと塾事務所。ここに実行委員24人が集まり、正式に実行委員会を発足させた。最後に皆で「紺碧の空」を歌い、大成功をさせて旨い酒を飲もうと誓いあった。その後、実行委員会を毎週のように開き、8月18日(金)午後、一日博士体験の理工学部の技術スタッフが仁賀保町に到着。翌19日(土)午前、鼎談講師の奥島孝康総長、安井潤一郎、見城美枝子講師、野球の谷沢健一氏が、ラグビーの佐藤秀幸氏、今西俊貴氏は前日に秋田市の着かれている。サッカーの原博実講師は20日当日、横手市に向かわれる。開会式は秋田ビューホテルの会場。19日午後3時。石川錬治郎大会会長、奥島孝康総長の挨拶。引き続き鼎談「美しいまちを創る」では進行役に秋田経済法科大学の経済学部長で稲本俊輝教授にお願いする。いよいよ始まったのである。
 再び酒場「久保田」の打ち上げ。20日の午後5時までがんばった進学ガイダンス委員会。長男が理工学部学生の菅原実委員長が報告。「相談者は二桁でした」(大拍手)。総務委員の日赤病院医師の橋本誠君(文学部中退)も見城美枝子さんのサイン入りのTシャツ姿で笑顔。そこへ横手のサッカー委員会の福田誠委員長から携帯に電話があった。「お陰様で大成功でした。こちらでも旨い酒を飲んでます」

 後日、その福田氏からメールが入った「なんとか無事に終了しました。サッカー教室は生徒130名の参加のもと、大成功裡に終了しました。子ども達も大喜びでした。いろいろと準備が大変でしたが、その苦労が報われるだけの子ども達の笑顔・笑顔・笑顔・・・。実施したかいがありました。
 この夏、早稲田フェスタは秋田の早稲田人の結束力を高めてくれた。いかほどに世の中のために働けたかは定かでないが、母校と多くの校友の方々のお陰様でした。
 「ありがとうございました」。心のふるさとと、このふるさとにエールを送りたい。
(フレーフレーわせだ)(フレーフレーあきた)     (昭和43年第一商学部卒)